24/02/08 更新:家

久しぶりの更新になってしまいしました。
昨年は夏が暑すぎて、長すぎてすっかり写真など撮っていられる気分になれませんでした。
しかし、そのおかげか長らくやめ時を逃していたカメラやレンズ探しから抜け出し、これでいいやという物のみに落ち着くことができました。本当に長かった。

とはいえ、そんなに悪いことばかりではなく、本格的に現場にはいって仕事するようになったり、この数年で自宅でリモート作業という環境にもなれてきて、かつ住宅設計の興味の範囲も枝が伸びるように少しずつ広がってきました。
自宅という環境。空間の実験が非常に行いやすい。

単純な建築設計で見込まれる部位の材質や色だけでなく、ほのほかの雑多なもので騒がしくなる。けど、ただただモノを無くしたり生活感をなくした流行り物にはなりたくない。
数日前にインテリアよりのメーカーさんの実施するリモートの意見交換会に参加し、自分なりに感じてきたことを言葉にする機会があった。盲目的という訳ではないけれども、日本で作っているものに注目したいんだなと気付き始めてきた。

まだまだ駆け出しではあるけれども、少しずつ体験・経験し、一人ひとりに合った提案をできるようになりたい。

23/06/01 更新:写真、編む

近頃は、これまで撮ってきた写真をまとめたり、再びデータ取り込みをしたりと振り返ることが増えてきた。

人の影響ということもある。
SNSでよくフィルム写真について見かけるRINOさん。義父にあたる小池三郎さんの昭和30年代に撮影されたネガから印画紙にプリントとフォトブックにまとめ、この度6月20日に発行されると投稿を拝見した。
プリント作業とフォトブックの編集作業をしているということはタイムラインに流れる投稿にてすごいなぁと見ていた事もあって、まんまと自分も感化されている。ありがとうございます。予約させてもらいました。

自分なりに写真を見ていると、少しずつ見えてくるようなものある。…ような気がする。
特にこの5年間というコントラストの差が激しい今までにない環境を過ごし、その中で撮ってきた写真。
多少のめり込んでしまい、道具遊びをしていたと思うこともあったけど、結果的にそれ以前よりも家族の写真を撮るようになったし良かったと思っています。

まとめ方としては、しまうまプリントのフォトブック。
多すぎてもまとまらないし、日常的突発的なものを流れにするのも難しい。
思った色が出るのか、自分の写真データの作り方に問題はないのかなどわからないことだらけだけど、少ない部数からできるサービスのようなのでサンプル的に発注しながら完成を目指すのも悪くないのかな。

23/01/29 更新:季節外れの話

全く季節に合った話ではないが、久しぶりに読みかけとなっていた鬼海弘雄さんのエッセイ「眼と風の記憶」を読んでいると芋煮の話が載っていた。
鬼海さんのところでは山形に住む年の離れたお姉さんから芋が送られてくるらしい。同様にうちも親戚の家から送られてくる。(芋に限らず、フルーツなんかも送り送られで、買うものは概ね贈り物用)
うちの芋煮は親芋を使うことが多い。送ってもらうのがそれということでもあるが、小芋や孫芋とは違い親芋は硬いなどと思われるが、親戚が送ってくれる芋は品種がいいのかとても柔らかく、これまで秋の風物詩としてうちのメインディッシュとして食卓に並んできた。それ以来、家で買う里芋は親芋率が高いように感じる。

うちの親は芋煮にあまり多くの種類の材料は使わない、シンプルなのが良いんだよとよく言っている。
しめじ、長ねぎ、板こんにゃく、牛肉、そして里芋。
レシピを調べてみると味醂とか砂糖とか書いているものが多いけど、うちは醤油に昆布だし、日本酒くらいは入ってるのかな。けど、甘い味付けは普段の食事からないので、芋煮に関しても基本的に醤油のみ。
芋煮を一通り食べ終わると、これまではうどんを入れるということがほとんどだったけど、ここ3〜4年は周囲の影響でカレールーも加わり、芋煮カレーうどんへと様子を変え、大鍋に作られた芋煮は飽きることなく完食している。

芋煮の季節となると親の子供の頃の河原で学校行事の芋煮会があったという話が恒例行事となっている。また一年経ったのだなと感じるひとときでもある。
コロナが流行る前に姉夫婦が山形に帰ってきた際に河原で芋煮会をしたこともあった。ここ数年は帰ってくる機会はなく、親が孫が生まれる際にあちらに手伝いに行ったくらいで、あと自宅ではiPadで毎日のようにTV通話している。使い方わからないからいいよというところから始まり、自分の使っていなかったiPhoneでチャットするようになり、今ではほとんど質問に来ることもなく、困難になると人は成長するのだなぁと感じた。

ここ何年も秋のちょうどよい期間はあっという間に過ぎてしまって、暑いか寒いか極端な季節となっている。
また芋煮会をしようなんて言える頃には、いい天気のもと鍋を囲みたい。雨なんか降り出して、”急いで鍋運んでー”なんて言っていたりするものだと思うけれども。

23/01/13 更新:身につけるもの身近にあり

ここ数年、出かけるということが極稀になっていたので仕事で着用する汚れてもいいような服ばかり買っていました。さすがにそういったことばかりでいると、あまり見た目的にも物への価値観も徐々に貧相になってきそうな感じがしてきたので、身につけるものの半分くらいは良い品質のものを選ぶようにしようと思いました。

今思えば秋の終わり頃ブーツを買ったことから始まったのかもしれません。
実際に買ったブーツはDr.Martensのベーシックなもの。これが品質がいいのかは人によるような感じがしますが、ソールの交換ができるということや、革の手入れで長く使い続けられるということに興味がわきました。
あくまでも起点です。冬の靴は良いとして春とかどういった靴を履こうかななどと思い、調べだすと、案外住んでいる近所に様々なブランドへOEMとして実際に生産している多岐にわたるジャンルの工場や実店舗があることがわかりました。

革靴、織物、ニットの服、帆布のかばんや財布など。これまで汚れたり壊れたりしたら買い換えることが当たり前になりつつあったものの殆どが、地元にほど近い範囲で生産し、直したり、そもそも長持ちするような丈夫なものとしてありました。

いわゆる伝統文化やそれに近いもの。それらにはやはり古いモノという先入観があり、昔からあるものという認識は持っていましたが、今調べてみるとOEMなどの経験で洗練されたパターンや模様、造形ということもあるのだと思いますが、そういった背景込みで、何よりカッコよくきれいで丈夫で素直にほしいと思うようなものが作られていました。

これは自分が住んでいる県内だからよく感じているということも大きく影響していると思うのですが、それはとても良い感じ方なのだと思っています。だからこそ、県外に住んでいる人にプレゼントしたりしていて、そうすると、もしかしたら自分に対しても他の人がまた自分の知らないなにかを教えてくれるのかもしれないなぁと少し期待してしまいます。ちょっと楽しみ。少しずつ買える範囲にはなりますが、地産地消の楽しみを味わってみようと思います。

22/12/30 更新:個体差

機材の振り返りをしていて思い出しました。

古いカメラの個体差。いや、経年劣化の差というべきか。
ジャンクで入手したKonica Autoreflex T3とHexanon AR 50mm f/1.7。
レンズは、絞りがオイルまみれで、非常に動きがよくありませんでした。
はじめはレンズ部分だけ分解して、絞りの羽根は分解せずに掃除できるところまで。最近、ようやく羽根まで分解してとても良い状態に復活できました。

復活はしたものの、復活したことでわかったこともあります。
T3に清掃したレンズをつけて高速SS側でシャッターをきると絞りが絞りきらない状態でした。
あれ?と思い、A-com1につけて高速側でシャッターをきるとしっかり絞ってくれます。
では、カメラ側の問題かと思い、Hexanon 100mmをつけると問題なく動き、A-com1でも問題はありません。
2つのレンズをカメラから外し、絞りが動くレバーの動作を確認してみると明らかに50mmの方の動きが弱いような感じがします。

1960年代のレンズとカメラ。60年以上たったもの、動くだけすごいような気もします。
今はカメラ、レンズ、フィルムどれをとっても高いような状態ですが、状態組み合わせ次第では、完璧ではなくても楽しむことはできそうです。また、最近のミラーレスカメラであれば、古いレンズは必ずしも絞りの動きが完璧ではなくても大丈夫であったりもします。ジャンクであっても、大切に残って使われていってほしいなぁと思いました。

22/12/30 更新:機材総括

意外と今年も買ったり売ったりしていたようです。
以前にもまして仕事で出かける日が多くなったことで小さく持ち運べるカメラを探して使ってきたような気がします。

ジャンクで手にした

【Konica】 AutoreflexT3
      Hexanon AR 50mm f/1.7

頂き物

【Konica】 A-com 1
      Hexanon AR 100mm f/2.8

購入

【Nikon】 S2
     S3
     Z5
     Nikkor S・C 5cm f/1.4
     Nikkor-H 5cm f/2
【Voigtlander】SC SKOPAR 35mm f/2.5
【Zeiss ikon】Sonnar 50mm f/1.5
【MS-OPTICS】 HIPOLION 2.8 soft 8/19

買ってみて手放したもの

Konica Hexar RF
Rolleicord V
Contax Ⅲa
Leiz minolta CL

NIKONのS型に関してはS3だけで基本的には十分だったのですが、マウントの特殊性とマウントアダプターだけではフィルム機でサブ機になるものがあまりにも賄えるものがなくS2も安いものを探して持っているような状態です。

それで、今年買ったもので写真の撮影を楽しくしてくれたものはなんだろうと思ったときに選んだものは次の2つかなと思いました。

レンズ:【MS-OPTICS】 HIPOLION 2.8 soft 8/19

開放はソフトフォーカス。絞れはパシッと。
画角は19mm。APS-Cで28mm近辺でパンフォーカス。
普段は夜にかけて撮影することなんで殆どないのに、ソフトフォーカスで街明かりを撮ってみたい気にさせてくれました。フィルムで撮影することが多いのでしっかり絞っての写真が多い中、ふんわりした写真も楽しいと思わせてくれます。なによりボディキャップをつけるより薄いレンズはもしかしたら旅行でも助かるかなりコンパクトな一本なのかもしれないと思っています。

カメラボディ:【Nikon】Z5

Z fcを先にZ28mmセットで購入していましたが、フルサイズのZも購入してしまいました。
使うレンズはブロニカのレンズにレデューサーレンズ入りのマウントアダプターがメインなので、いまいち参考になる使い方ではないのですが、個人的にはとても気に入っています。
1:1フォーマットで先程のソフトフォーカスレンズをつけてもとても独特な写真になり、特にピントがつかみにくいレンズなので、ミラーレスはとても使いやすくしてくれます。
これまで一眼レフの写真ではフリンジが出て使いにくかった絞り値でもしっかり補正してくれているのを実感できたりとても技術の進歩を感じました。

今年買ったものを振り返ってみるとより使いやすくとか以前みたいに手当たりしだい感はなくなってきたように感じます。徐々に増やすよりメンテナンスをと思い、Dfが10年目を迎えるに当たりオーバーホールしてもらったり、ブロニカのモルト交換、ライカM1のオーバーホールと行ってきました。
フィルムでは、現像だけではなくプリントも徐々にするようになり露出の考えかたなどすればするほど楽しくなってきました。もうカラーでフィルムを撮ることはそう多くないと思いますが、モノクロはまだまだ楽しんで行きたいです。

来年は、僕自身はあまり購入することなく、また年末にカメラ欲しいと聞いてきた姉にカメラを貸しつつ布教することに注力して行きたいです。

22/11/27 更新:私の世界とはなんだろう

ふと現場の昼休みにその街の公園に入ってみる。商店を回ってみる。お店の人と話してみる。
その道中にすこし目を引くところで写真を撮る。

休みの日に出かける。服を買い、コーヒー豆を買い、本屋さんでなにか面白そうな新刊があるか眺める。
その道中のいつも見慣れたところで写真を撮る。

雨の日に部屋で本棚を眺め、ユーチューブやradikoで音を流し、ツイッターを眺める。
出かけない日のお昼にフィルムを現像し、デジタルカメラでネガフィルムをデータ化し、夜暗くなってから暗室でプリントをする。

写真って自分にとって世界を切り取るとか大きなことではなくて、生活していてメモを取っているようなもの。
デジタルではなくて、手書きのメモに近いような感じ。メモなのに、まるで方言混じりのようなメモ。

伝えたいというよりは、残しておこうという感じ。

手書きのメモは、通りすがりの人にたまたま目に触れてしまう。
なんのことを書いているのか分からなかったり、もしかしたら文字が読み取れなくて内容よりも字が汚いと怒る人もいるかもしれない。

なんとなく見切り発車で書き出したけどスッキリした。


22/11/05 更新:紅葉

明日で丁度Nikon Z5を購入してから一ヶ月が経つようです。とても早い、あっという間に秋が過ぎ去ってしまう。

つい先日北島敬三さんの”UNTITLED RECORDS”を見に庄内地方に行った頃は、通り道になる月山の高いところの紅葉がいい見頃で、平地はまだまだ色がついていた木々は少なかったはずなのですが、いつの間にか身近なところでは葉が落ちきった木々も見られるようになってきていました。

山形市内から車で20分程度離れたキャンプ場や芝生の広場などレクリエーション施設として整備された西蔵王公園。今回はそこの広場からもう少し登ったところにある展望台から紅葉を楽しみにでかけました。

犬を連れて散歩に来ている人や小さな子供やおじいちゃんおばあちゃんを引き連れた家族など地元の人が立寄って楽しんでいた雰囲気がありました。

標準画角のレンズだけ持っていきましたが、そんなに困ることなく楽しく撮れました。
やはり二眼レフや手持ちのレンズの種類が少ないウエストレベルの中版カメラで慣れてたせいなのでしょうか。
真四角はとても心地が良い。

22/10/23 更新:山を越えて鶴岡・酒田に

twitterでフォローしている土門拳記念館のアカウントで今年度の土門拳賞の展示予定を見かけ、少しばかりネットで写真家さんの情報を仕入れいざ庄内の地に。

写真家さんにそこまで詳しくなく、専門知識や写真の変遷などほぼ知らず。
でも、今回の受賞作のメインテーマをみるとそんな自分でも見に行ったとして、理解に至るかは分からずも後悔はない気がした。

目的地の土門拳記念館は酒田市。せっかく庄内にいくのでその前に鶴岡に寄り道。
観光地に行こうかと前日にいろいろ検索しようと思ったけど、もっとラフにいこうとコーヒー店と地元のお菓子屋さんだけ調べただけにした。すごく気が楽。

すこし秋っぽさを感じるようになってきています。
天気予報の曇雨に反し、インナーに着た長袖のシャツが少し暑く感じるくらいの気温。
はじめはお菓子を求めて鶴岡山王通り商店街に歩いて行こう。

商店街への入り口は橋になっている。タイミングがいいのか、一羽が川中にぽつりとしていた。
ここまでくると潔いダジャレに迎えられ、古い建物、それを改装して店を構えているもの。通りは物静かで写真を撮っていても人通りを妨げることなく商店街の奥にある日枝神社まで歩いてみた。
目的地は木村屋本店。父方の実家が庄内にあるので子供の頃から馴染みがあるお菓子がある。秋なので、マロンかな。

少し通りを戻って、鶴岡銀座商店街にあるコーヒー屋さん(パラディーゾコーヒーロースター)。
山王通り商店街に向かう前に店先を訪れてみたときは準備中だったようで、シャッターが半開き状態だった。戻ってみて、しっかりオープンしていた。歩きまわって少し暑くなったのでアイスコーヒーを豆の種類の説明を受けて頂いた。少しばかりオーナーさんとお話し、丁度さきほど歩いてきた山王通り商店街からこちらに移転し、今日が本格的にオープンした日ということでした。すこし嬉しい気分がした。家で飲むように豆も一緒に買ってきました。

では、土門拳記念館に向かいましょう。

展示の雰囲気をすこしだけ記録。今日は、北島敬三さんのギャラリートークも開催されるということで参加してきました。一応メモとりながら、質問したいこと考えて、質問してみて面白い経験ができた。

毎度のことながら大きなプリントは迫力があり、写真集やWEB上でみる以上にものを考えてしまう。

展示を見終え、ギャラリートークが終わるころ雨が降り出し、欲張らずこれ以上天気が悪くなる前に帰宅ドライブです。

写真集の中にもテキストがあるので、それを読んでからこの展示で言っていたことなど文字にしてみるかどうか考えてみようと思います。もしかしたら文字にしないほうがいい可能性も感じてる。

すこしずつこういった展示にも行きやすくなってきたので、来年あたりは県外にも気軽に行けるようになるといいな。

22/10/16 更新:クラシックカー三昧

突然の目覚めかのようにカラー写真三昧を楽しんでいる。

コロナ以前に一度だけ見に行ったクラシックカーのイベント。それが今年から再開するということでずっとウキウキを隠せずにいた父親と一緒に見に行ってきました。

以前は福祉施設の駐車場に各所を巡ってきたクラシックカーが駆け抜けていくというような感じだったと記憶してました。今年は商店街の通りを全面封鎖して、全部の車を並べじっくり見ることができるような感じになっていました。それにしても数が多すぎて全部見るとか出来ませんでした。

イベントから帰ってきて早速現像して父親に見せたら過去の父母が乗ってた車の昔話など久々に聞けてこういうイベントはただ見るだけではなくてそんな話に花が咲くので好きです。

僕は見たりするのは好きですが、そこまで車に詳しいわけではないのであまり語れません。
後は、撮ってきた写真を載せておくことにします。

色もかわいいし、形もかわいい。

ツイッターにあまり連投するのは憚られるので、少しずつあげようと思います。

22/10/10 更新:写真機

ここ数ヶ月の間にいつも間にかフィルム関係の値段が格段に上がってしまった。
数ヶ月ごとに定期的に上がっては来ていたので、特に驚きはないのだがここまで来たかという感じはしなくもない。すでにカラーネガを使う選択肢から外してしまっているので特に大きな影響はなかったりする。とはいえ、まぁ多少はあるかもしれない。

ここ一年半くらいは重点的にモノクロフィルムで撮り続けてきたけど、単なるそういう気分だったから。でも、ふと昔撮ったデジタルカメラの写真を見返すとこういう写真は最近撮ってなかったなぁと思えた。冒頭にあんなことを書いておいてなんだけど、まずそれがキッカケではないというのが前提で少しフィルムカメラとレンズを整理して、全体的にカメラの物量を減らしてデジタルもフィルムもうまい具合に使い回せるようにしたい気持ちが高まった。
すこしニュアンスが異なるかもしれない、フィルムもデジタルも関係なく楽しみたいということのほうが強い気がする。

新たにニコンのミラーレスカメラのZ5を買いました。
デジタルカメラの新規購入は昨年のZ fc以来の1年ぶりです。

機材の整理としては、フィルムカメラのHEXAR RFとエルマー50mm f/2.8、ローライコードVを減らした。
今後整備したいと思っているカメラはもう少し置いてあるものの、相当選択肢が少なくなった。気持ちは晴れやか。

数日前には、一眼レフでフルサイズのフォーマットを持つカメラを持ってるから新たには要らないよなぁとは思っていたものの、先程の手放したカメラレンズの金額に少しだけ金額を足せば買うことが出来た手頃なカメラということもあり購入を決意した。薄っすらと考えていたこれまでとは異なる使い方をしたかった計画の実現にもなった。

サードパーティ製のレデューサーレンズ入りマウントアダプターを使った正規目的外の使用のため限られた条件でしか使えない。しかし、ブロニカのレンズを使ってウエストレベルの撮影が出来る環境を実現してみたかった。

この組み合わせが良いとか悪いとかを検証したいわけではないので、特に多くを語りたいわけではないのでこのくらいにするつもりです。ただ、性能がいいとか悪いとかそういう事の前に僕にはこの使い方はとても違和感なく楽しめたので、自分にとってはこの使い方はあってるのだと思います。

これからは、主にフィルムでとかデジタルでとかそんなこだわりはなく、楽しく写真を撮っていくということに集中したいと思います。以下は、ここ数日の試し撮りを。

鬼海弘雄さんの写真展とコーヒー店2店舗

神社とカフェと秋のバラ園

22/08/13 更新:プリントワークから露出を考える

昨年のカメラ屋さんから引き伸ばし機を頂き、少しずつプリントの練習をするようになりました。
特別に何かを習ってきたわけではありません。でも、古い教本や経験者からアドバイスを貰いつつ、ようやく良いんじゃないかなと思えるものもたまには作れるようになってきたと思います。

テスト露光でおおよその露光時間を決定し、本番のプリントを数回繰り返して完成を目指します。その中でネガの各部分の露出の差に関して思うことがありました。

テスト露光(右からF11で2秒,2+2秒,2+2+4秒,2+2+4+8秒,2+2+4+8+12秒)
テスト露光よりF16で4秒露光
一回目結果から調整(F16 全体1.8秒,建物部分を覆い+1.8秒)

こうしてプリントの作業をしてみると普段そこまで意識していなかった各箇所の露出の差について目に見えて理解できてきます。

自分が使っているフィルムカメラは、露出計がついていても電池を入れていません。一応マニュアルで決めているいうことになります。でも露出の決定に関しては、よく言われるシャッタースピードはISO感度分の1に晴天ならF16を基準に、また判断が難しい場合はスマホの露出計アプリを始めに基準値として図ってから各場面に応じて調整という感じでそんなに厳密には調べているわけではありません。なんとなくです。

今回プリントしてみると建物の壁面、屋根、道と木々の大まかに3つのグループがあると気付きました。
一番暗いのが壁面、次に道と木々、一番明るいのが屋根。
一回目の結果を見てみると、道と木々、屋根の明るさは概ね良さそう。でも明らかに壁の面は暗い。
プリントとしては、壁の面の露光時間を短くしようを思い、完成させるための時間配分を決めました。

また、同時に撮影の時はどうすることが考えられるのだろうとふと思いました。
ある程度ハイライトに強いフィルムを考えると壁面、道と木々が露出を計るポイントなのかなと思いました。プリントの結果を見てみると1段の差があるのかなとも考えられます。1段の差なら、壁を基準に露出を測って設定を決めても良いのかなと少し想像。

しっかり勉強したわけではないので、もしかしたら間違ったこと言っている可能性もあります。
でも、普段ネガのデジタルデュープでそこまで意識せず写真にする作業(シャドーとハイライトのバーの移動)を視覚的にアナログ作業で意識しました。デジタルが良いとか悪いとかいう話ではないのですが、プリントはプリントなりに良いところがあり、デジタルはデジタルなりに良いところがあると再実感しました。
そんなに詳しくはないですが感想文的に書きとどめてみました。

22/05/02 更新:Caffenol

Caffenol-コーヒー現像

いつも写真のいろんなアドバイスをしていただく方に教えてもらった写真用の特別な薬剤を用いることなく現像できる代替方法。せっかくのGWです。旅行などいまいち計画しにくいので、夏休みの自由研究感のあるコーヒー現像をしてみようと思いました。

フィルムは、冬から春にかけて散歩中に撮り歩いたイルフォードのデルタ100。
肝心の現像液関係は、ビタミンCの粉末を除いてはすべて100円ショップにて調達です。
詳しい現像液の調合分量に関しては(有)オーバードライブさんのブログにある「caffenol-C-M」の一覧表を参考にさせていただきました。

現像結果は、想像していたよりもしっかり現像されている気がしました。
現像の作業自体も通常よりも2工程ほど省略でき、難しいことはありませんでした。
強いて言うなら、現像の直前に各薬剤を作るので温度を下げる時間が長いのが不便には感じました。
これならハードルもさほど高くないので、初心者の人にも勧められそうです。

趣味として写真を撮っているなら、これくらいラフで楽しい感じの現像でもいいのかなとも思っているので、しばらくコーヒー現像で楽しんでみようと思います。

22/04/30 更新

随分と久しぶりの更新となりました。
この間にも持っているフィルムカメラを整備に出したり、自家現像の現像液を変えてみたり、自宅に暗室を作りプリントの練習など始めてみたり…

家に長くいるので、こんなことをどんどんと始められたという良い見方もできるのだけれども、
いつまで会ってみたい人とも会えずに過ごしていくのだろうかと気持ちが焦る。

写真に関しては、フィルムの方へとどんどんと気持ちが向かっていくのだが、特に目標というものはない。
無いというよりは、この淡々と撮って現像して、写真にして…なんとなく生活の一部になると良いという感覚。
撮っているものも、本当に日常の一部だしね。

昔は、親と写真やさんに現像をお願いしに行くのが特に特別ではなかったように、あまり特別視したくない気持ちもある。特別じゃない、でも大切にしたい。そして、楽しく。

実感

恒例となってしまった年末のカメラと写真集の整理。
やはり何事も持ち過ぎることは自分に合わないようだ。
この気分に陥ると必要な何かが壊れない限りもうモノは固定される。
クルマもキャンプ道具もコーヒーも同じ道をたどった。
そして、昨年からモノクロ自家現像をするようになった。


撮る写真も九割九部モノクロフィルム。
特に撮る写真はカラーじゃなくても良いんだと思った。
カラーが駄目ということではない。
現像も自分でできて、プリントも、データ化もイメージを作りやすいから。
多分、それだけなんだと思う。

使うフィルムは中版がilford delta100/400,kentmere100,400の4種類。
カメラもそれに合わせて必要なものだけに。
結果的には、中版フィルムカメラのブロニカS2とローライフレックス/35mmフィルムカメラのM1とミノルタCLの4機を中心に残した。今は整備に出したりしている。
レンズに関しても、あれがあれば便利だなぁとは常に思うけど、いくらたくさん持っていても使うものは限られてくるのは自分が一番わかっている。標準50mmとそれより広い35mmというようなその付近だけに割り切る。

鬼海弘雄さん/渡部さとるさん/村越としやさん/山下恒夫さん/アッジェといったモノクロを中心にした本棚を見る。
いろんな見方ができるんだなと感じることができた。

これだけ気持ちに整理ができたのは、年末にカメラ屋さんに寄ったときにアドバイスされた”誰に見せるとかじゃなくてもまとめてみるとか目標作ってみるとまた何か新しい発見があるかもしれないよ”という一言がきっかけ。
カメラを整理し始めたタイミングだった事もあって、もうそろそろカメラ・レンズに楽しみを求め続けることは卒業しても良いなと実感した。

この実感するということは、結構実生活の中から消えていた感覚だったのかもしれない。
何でもかんでも調べられる、シミュレートできる。
たぶん、そこから一歩踏み出したいそんな気分になったのだと思う。
実感しよう、体感しようと手を動かし続けたい。

フィルムデータ化の環境

春過ぎころから自家現像を始め、フィルムで撮る機会も日常使いとして増えてきました。
データ化はお店で頼むともう一本現像できてしまう値段でもあるので、自家現像よりも前から自宅でフラットベットスキャナで行っていました。

古い機種を使っていたこともあってピントもかなり合わない。フィルムのホルダーを少し加工して調整はしていて、まだマシになったかなぁと思っていましたが、データ化の環境を変えたことで全然うまく撮り切れていなかったことを実感しました。

先に出したほうが今回撮り直した写真で、その後にフィルムスキャナで撮ったものの順番で載せてみました。
全然印象が変わる。そもそもスキャナーのセンサーの劣化が凄いのかもしれない。

フィルムスキャナの代わりに新しく使うようになったものは、マクロレンズの先につけるタイプのフィルムデジタイズアダプターです。
ただの筒にしては高いですが、常に置き場に困るフィルムスキャナよりもコンパクトに所持できるのは一ついいところです。

大した事のない日常の写真しか撮ってはいませんが、しっかりデータ化できる環境に変わったというのは満足感が高いです。今回は35mmのフィルムを載せましたが、中判まで撮れるアダプターなので中判のモノクロもどんどん使っていこうと思います。

今後はもっと出かけられる環境になっていってくれたら良いなぁ。

争うより楽しい方へ

道具っていうものは、なんだかんだでこだわりというものが出てくる。
これは、仕事の道具から趣味の小物まで当てはまると思う。

写真やカメラなんかを趣味にしてSNSでもそういった人と関わったり、TLを眺めているものだから、時々「道具は何でも良い」派と「それはけしからん」派を見かけるときがある。
こういうことは単純にカメラが好きなのか写真が好きなのかの違いかと言えばちょっと違うんじゃないかなと思っている(中には本当に単純だったりする事もあると思うけどね)。

僕は、たしかにカメラも道具としてかわいいと思ったりかっこいいと思ったりするので、カメラ好きだと思っている。その御蔭で色々なカメラを試して使って、今も所持していろいろ使いまわして楽しんでいる。
でも、撮り終わった写真をSNSやブログに投稿するときはその写真がどのカメラで撮ったからと言うことはあまり自分以外の人にとっては伝えなくても良いのではないかと思っている。
投稿し始めたときはウキウキで機材名とか記載していたときもあったのだけど、なんだろうモヤッとしてしまった。
その後は、写真に「#photograph,#120film,#135film」とか簡単なハッシュタグだけ付ける程度にしました。
たしかにこだわっている(好きな)カメラで撮っている。けど写真を見てもらうことに関しては、使われたカメラについては伝えることはどうでもいいんじゃないかなという派。
そういう意味でカメラは何でも良い派。いや、写真に対してカメラの情報はどうでもいい派。

まぁ、そんなことを言いつつもこういうことなんだと思う。
いつも一緒にカメラや写真に関して話している人は単純にカメラも写真も機材名とか出して楽しくしているし、いい写真も撮っている。なんか言ってくる人にはサラリとかわしてまた自分のやり方で。
どっちの派がいいとか悪いとかは全く無くて、なんで争う必要があるのかなと思わせてくれる。
仕事もだけど、合わない人は徹底的に合わない。そんなときは争うより、心地よい方に寄っていけばいい。

いろんな人が居るインターネット。気にしない、気にしすぎない。
辛くなるための趣味じゃないからね。

ハリアナリベンジ

ピンホールカメラ。
小さなちいさな穴と暗箱というシンプルな写真機。

昨年の誕生日に購入し、冬場の現場に持って休み時間に撮影をしていました。
冬場はどんよりと暗く長秒の露光ができ、また外と中の行き来で急激な寒暖差によるレンズの曇りも心配が無いので大活躍するのではないかと考えていました。

ただそのときは自家現像を始めていなかったり、コロナで外出がほぼ無かったりで一本撮影しただけでこの秋を迎えてしまった。

残念ながらフィルムの巻太りが出来てしまい、フィルムを外した際に光が入ってしまった。
かつ右上にピンポールを隠す蓋が上がりきっておらず、写り込んでしまうなど、一通りの失敗を経験した。
蓋の開閉を手で行う必要があり手に持って撮影は困難。三脚必須なこともあり、日が空いてしまった。

夏と秋の間に以前から見てみたかった写真集を手にしました。
田所美恵子さんの「針穴のパリ」。
滲んだような印象と大きなフォーマットに写された迫力はどこか幻想的。

ひとまず県内の感染症罹患者数が落ち着いてきたときに、持ち出してみようという気がした。週末のあまり明るすぎない日、さっそく箱にフィルムをセットしリベンジに。

前回からは数ヶ月経っています。
したくもない期待通りに巻き上げることを忘れて多重露光。
ハイテクだろうがローテクだろうと慣れることが一番なのだと実感する。
そういえば、先日も久しぶりに二眼レフにフィルムを装填したら、通さなければならない箇所を忘れて全部巻き上げてしまった失敗を思い出した。
じつにダメダメ。しかし、狙って多重露光をしてみようかなとも思える面白さも思い出したので結果としては悪くないはずです。

ダリアの咲く園内を撮って歩いた。
園内はダリアの本数もたくさんあり、品種ごとに様々な色に富んている。
普段の生活で身近にある花ではない事もあって、こういった場所では特有の花の香に少しばかり驚きのような感覚があります。
モノクロ写真では色も香りも伝えられないが、それもまた違う一面として良いと思いました。

結果としては、残像程度に少し人が写ってしまい鑑賞するタイプのシーンでは、立ち止まる事があるの道路の通りのようには行かないんだと感じました。
でも、全体的な露光具合やファインダーが無いながらも酷いバランスのものは少なかったようにも感じます。
あとは、比較的広角に写る仕様でもあるので、もっと近づいて写すようなことにもチャレンジしてみたいし、もしかしたら遠景と近景の多重露光が良いのかもしれません。

そうそう頻繁には持ち出すことはないだろうけど、この冗長性のあるピンホール写真も良い写真だなぁと振り返ります。そう、今はもう寒くなり始めの秋です。

写真展「INDIA 1982-2011」

寒河江市美術館

先日、寒河江市美術館で開催されている鬼海弘雄さんの写真展「INDIA 1982-2011」を見てきました。
写真展のタイトルから分かるようにインドで撮影されたモノクロ写真の展示です。
文末に展示された写真のタイトルだけ載せていますが、タイトルを見返すだけでも写真が思い出されるとても印象的な写真展でした。

これまで何度か海外の写真が収められた写真集を見たりしてきましたが、かっこいいとか雰囲気があるという印象止まりで結局何度も見ることはなく、手放してしまうということがありました。
でも、鬼海さんの写真集だけは違う気がしました。今回の写真展を見に行ったことで自分なりになんで鬼海弘雄さんの写真は見ていられるのか少しだけ気付いた事がありました。

それは、撮影の背景を知ることが出来ているということだと言うことです。
鬼海弘雄さんは、写真集だけではなくそれに伴う道中のエッセイを執筆しています。
一番初めに手にした本は、草思社から出版された『東京夢譚-labyrinthos-』でした。
こちらは東京近辺の街の肖像を写した写真とそのエッセイが収められた一冊です。
めったに人が写っていない街の写真。そして、エッセイだけのパートが記載されています。
買う直前は、人も写っていない街の写真はどのように見るといいのだろうかと買おうか迷いました。
いざ買って読む。すると、エッセイにあるような人との出会いとか出来事が、写真のその場所で起きているのかもしれないと想像を掻き立てられたことに驚き、面白さを感じました。

鬼海さんのエッセイは、その後探し写真集も含め11冊ほど手にできました。ボリュームがあるので全ては読めていませんが、文章もとても頭に情景が浮かび読み応えがあります。
国内だけではなく、トルコやインドに関するお話など自分が想像だけでは考えられない環境や境遇を知ることが出来ました。

今回のインドの写真は、まず写真作品自体がすごく印象的で圧倒され、楽しめました。
でも、それ以上にエッセイで得た情報や遭遇した出来事などを知っていたおかげでより楽しめたと感じたことが多くありました。

15.花婿のパレード16.結婚披露宴に向かう楽隊は、『印度や月山』の「楽隊と結婚パレード」の話や『誰をも少し好きになる日-眼めくり忘備録-』の「酢を飲まされる娘」を読むとその背景をすこし知ることができたと思えた作品でした。他にも53.管理人のポマードの跡がある壁などはしばしば泊まる宿に関する文章を見ることで、なんとなく想像できた。
他にもエッセイのおかげで楽しめた作品がたくさんありました。

写真の見方とは一つに限られるものではないと思います。
でも、背景を知ることで読み取れるということも楽しみ方の一つなのだとわかりました。
鬼海さんは、残念ながら昨年亡くなられてしまいました。でも、これから見に行ける写真展では作家さんが在廊されている際は、撮影の背景など迷惑がかからないようだったらお聞きしてみたいと思います。

01.長距離列車に揺られる赤子
02.列車を待つ男たち
03.夕方の浜辺
04.祠のある大木
05.砂漠の放牧から帰ってきた山羊
06.停車場の青年
07.六人の女と路地に棲む牛
08.出漁の準備
09.クリスマスが近いマーケット
10.骨折した少女
11.猛暑がつづく砂漠の町
12.にわか雨の中の姉弟
13.パンを食べる猿
14.骸を包んでいた布を着るサドゥー
15.花婿のパレード
16.結婚披露宴に向かう楽隊
17.祭り日の移動遊園地
18.ベレナスの驢馬
19.激流に遊ぶ少年
20.鳥の水飲み場のある沐浴場とハウラ橋
21.初めての海。砂漠の地から巡礼者
22.国民宿舎の青年
23.ベビーベッドが運ばれる朝
24.バザールへの路
25.「食堂サンセット・ビュー」のコック
26.昼下がりの沐浴場
27.三人の男
28.海を見る親子
29.家路
30.聖河巡り客を待つ男たち
31.沈着な水牛
32.増水するガンジスと飛ぶ男
33.カルカッタ最大のバザール
34.彼方から
35.野宿するサドゥー
36.石材を運ぶ青年
37出漁の前の男たち
38.太陽、月、星の兄妹神の山車
39.大河が合流する聖地
40.レンガの窯だし
41.霧が降る一月の沐浴場
42.テントの家に帰る男たち
43.登校の時間
44.警察署長の三姉妹
45.牛の葬送
46.駆ける少年
47.睡蓮を持つ少年
48.ヒマラヤ麓の短い夏
49.町外れのバス停
50.中洲の一軒家
51.鏡を運ぶ
52.女神祭日の花の筏
53.管理人のポマードの跡がある壁
54.川砂を運ぶ人たち

生活にカメラを

果たして、写真を撮り始めてなにか変わっただろうかと思うことがあります。
カメラを始めた当初は、とりあえず写真を撮るために旅行に出たり、趣味の渓流釣りやドライブに持っていったり、観光的に景色のいいところを撮りに出かけていたりしました。

なんとなくカメラで撮る写真はきれいで有名ですごいものを撮るということがいつもどこか頭の隅にあったかな。
ここには載せていない写真を見返してみると、結構鮮やかさのパラメーターを触っていたりして、ちょっと笑ってしまうようなものも多くありました。
でも、たしかにカメラとは色鮮やかに高精細に撮れるものという認識があったと思います。
ちょっと非日常感。

ただレンズなんかは高くて、キットでついていた標準ズームレンズ一本、中古のマニュアルレンズ一本で撮っていました。
それでもカメラで撮る写真は特別な感じが強かった気がします。

古い歴史的建造物とか朝日とか銀世界とか、わからないながらもきれいなものを撮ってみたいという気持ちが強く、写真投稿サイトに登録もしていた事もあって、若干高評価が欲しくて写真を撮っていたのかなと少し思い出しました。
ここまでが大体一年目くらいに撮ったもの。今撮っている写真より遥かに頑張って撮っているんじゃないかな。

ただ、最近はちょっとだけ心持ちが変わってきたような気もする。
気のせいかな。環境が激変したせいかな。

いつもカメラのことや写真のことを教えてくれる方に中版のフィルムカメラを安く譲ってもらってからフィルムで写真を撮ることが多くなって来ました。もちろん貰ってから少し経つと自由に外出ができなくなる今の事態に突入していくわけです。ちょっとだけ自家現像も始めてみました。

もっぱら写真に残すことができる場所は、近隣の公園や川沿い、仕事の現場での昼休みの時間など。
ときどき、フィルムを現像に出したいからと言って家族を撮ったり、たまに体を動かすために散歩道を見つけて撮ったり。散歩でみつけた歩いたことのない地元の風景はなんだか不思議な感覚。

わざわざ撮る必要はないのだけれども、撮ってあとから見返してみるとそうだったと思い出す。
子供のときに車で連れて行ってもらった場所を訪れてみて、周辺を歩いてみる。「こんなところだったのか。」と目線の違いに驚きを感じる。
たぶん、撮った写真は誰に評価されるわけでもないただの日常風景なんだけども。

ここ1年くらい振り返っても本当に特別な何かは撮っていない。
けど、日常にカメラが身近になってくれたように感じる。
やっぱり見返してみると最近撮れたものは以前とは違って見える。

カメラで撮ってみる、とりあえず撮り続けてみる。
ちょっと生活が楽しくなってくるかもしれません。

一本、また一本。

自家現像を始めてからというもの、モノクロフィルムの撮影本数が格段に増えてきました。
やはり、安く早く現像できるとモチベーションも上がります。

現像をするようになってから撮影時の露出とか使うフィルムについて結構考えるようになりました。
自家現像しはじめてから使っているフィルムがrolleiのretroシリーズで実効感度が低いようです。
またコントラストが結構高く、アンダー部分が全く写っていないということもありました。
フィルムって結構アバウトに撮っても写っているものと感じていたところもあったので、使うフィルムによってはアバウトにしてもアンダー部分の許容度は低いのだなと結構実感しています。
富士のアクロスなんかは結構アンダーまでしっかり写っている。優等生なんですね。

実際は自家現像したから気づけたという訳ではないのです。撮る本数が増えたことで気づいたという感じなので、より出来上がりについて考えるきっかけになったので現像作業ができるようになってよかったです。

あと、モノクロが特別なものいう認識が無くなってきました。正直に驚いています。
周りにも自家現像する方が増えてきているような気がするので、是非ともコロナ禍明けにはレンタル暗室で現像プリントする機会に参加したいです。

縁結び

写真を撮っている方のエッセイやブログ記事を読むのがとても好きだ。
中には写真に言葉はいらないという方もいるだろうけど、それもいいと思う。

自身の楽しみとして、写真は色んな人と関わることができるということがいちばん重要なんだとわかった。
エッセイやブログには、色んな人の出会い・時には読者への投げかけがある。
だから好きなんだと思う。

仕事での人との出会いはある。でも、やはりそこは仕事。
写真での出会いは、学生時代に友人と出会えたときに近い感覚がある。
実際、同年の人よりいくつか年が違う人との出会いが多いが、学生時代より仲良くしてくれる方が多いと感じる。

作家ではないし、大作を撮ろうなんてモチベーションを持っているわけではないけれども、いつかは仲良くしてくれる方と展示というものをして更に人との出会いを広げてみたいものです。

Leica-Ⅱf,Rollei-RETRO 80S

写真の日に

意を決して、タンクに現像液を流す。

「あれ、注ぎ入れるのにこんなに時間がかかって大丈夫なのか?」

動画を見、教えてもらったサイトを見たりしたが、実際にやってみると不安になってくる。
想定した時間よりそれぞれ長くなっていたと思う。
そう、最近はもっぱらフィルム写真を楽しんでいる。

フェイスブックで大学時代の同級生がカラーネガの自家現像をしている投稿を見かけた。
以前から自家現像をしてみたいとは思っていて、いつもフィルム写真やカメラについて教えてくれる方からタンクとリールを頂いてはいた。しかし、足踏みしてしまいなかなかやれずに居た。
投稿記事に自家現像を始める背中を押してもらおうとコメントを残した。

自身の文脈は

「(前略)絵になる街は写真の構図も決まるのに、少しも撮りたいとは思わなかった。以前訪れたニューヨークでも同じ体験としている。町の西欧的気配に自分の記憶の沼が直接かき混ぜられることがないからだろう。」

「誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録」記憶の波(頁158 行9-11)より

鬼海弘雄さんの書籍より引用させていただきました。

今は、ありとあらゆることが表現の時代になったと体感している。
大学でデザインというものを学び始めた十数年前はまだその動きの初期くらいと感じていたので、時代は着実に進んでいるのだなと嫌でもそう思う。
そういうこともあり、デザインする表現するということは特別なことでは無くなってくると思っていたし、そのなかで埋もれないように誇りを持って考えようと必死になっていた記憶がある。
そんな大学時分、常々課題の設計について考えると教員や仲間内ででてくるワードがあった。
コンテクスト
その意としては、文脈。
“文脈なきデザインに意味などない”というようにバッサリと切り捨てられた課題のレビューを思い出す。

明らかに素晴らしい対象や機会に出会ったとしても、それに惹かれる文脈が自身になければ形にはならないということは先程の引用文からみても明らか。表現とはそういう事なんだと思う。
大事なのはあなたであり、私。当てはまらない事に必要以上に噛み付く必要もない。

“なんでも道具を揃えすぎるとそれに満足してやらなくなる。”
父親と趣味について話しているとその中でよく聞く言葉。
共通して楽しんでいるキャンプや釣り、車。
どれをとっても完全完璧ではないが実に楽しそうに遊んでいる父。
身近にそんな感じマイペースを楽しむ趣味人がいるもんだから、先程のこともすんなりと受け入れられるのだろう。

“自身の文脈”こんなところで考えるキーワードになろうとは思わなかった。
これから働くや趣味を楽しむ、誰かとともに日々を過ごすなどにおいてもっとしっかり芯においていかなければならない事なんだと思う。

ラジオの声

仕事しながら流すラジオ局をJ-WAVEにし、朝から垂れ流している。
もっぱら最近はJ-WAVEな気分。
派手なエンタテイメント性ではない構成なのがとても落ち着く。

もう10年ぶりくらいに耳にした坂口さんの声。”声に張りがある”そう感じた。
ずっと前から作りたいことを隠さないで形にしろというようなことを言っていた。
今も変わらず作り続けていて、病気・特性とは一生付き合っていく、一生向かい合い力にしていくのだなと思った。

そして、なんとも自分の最近の様を残念に感じてしまった。
そろそろ次の段階なんだろうな。

良いものをただただ享受する。悪くない。
なにか生まれる種になるかもしれない。
しかし”かもしれない”から”手を動かして自分の力で積み上げていく”をしないと次第に何かがすり減っていく。

でもいい趣味に出会えた。建築を仕事にしようと思った次くらいには大きな出会いだったかもしれない。

“誰をも少し好きになる日”

購入してから大分季節は過ぎてようやく読み終えた。
写真家のエッセイだからといって写真のことばかり書いているわけではなく、日々の出来事で町で出会った人々や家での飼い猫ゴンとのやり取り、故郷の醍醐村とその光景を重ね合わせたトルコやインド。

このところインターネットで見ることができるブログや動画、時々カメラ雑誌は、常にカメラをつかったステキな写真に撮り方の教科書やカタログの延長でどこを見ても似たりよったり。
カメラの購入のときにはとても便利な反面、もう見飽きた。
なかには好きなブログもあるので、もちろん全てではない。

今誰もかれも移動に制限があるなか、かつて訪れたすごい綺麗な景色など見ては良かったと思う。けど、今行きたいかと言われると案外そうでもない。
会いたいと思っている人とも会いたいには会いたいが、今ではないと感じている。
そんななか、この鬼海弘雄さんのエッセイを読み終えた。

“記憶の波”ぜひとも読んでみてもらいたい1話。
なんとも今感じていることに非常に馴染んで、心が軽くなる。

やはり、鬼海弘雄さんがとても好きみたいだ。
一度も会えなかったことがとても残念でならない。
そんな残念な気持ちを抱えながら、今日新たに本棚に迎えた”靴底の減りかた”で鬼海さんに会いに行く。

積み重ねながら、同時に手放す

晴れかと思いきや、雨が降り出す。
風がうねる音を聴くと、先ほどまでは日差しで暖かかった窓際は暗くなっている。
少し冷ややかとして5月だというのにファンヒーターのスイッチを入れた。

この連休は、これまで買って積み重ねてきた本を読む予定としている。
つい数日前、古本屋さんで数百円で購入した絶版本が定価の10倍以上の値段になって取引されていることを知った。
今すぐ読まずとも読みたいものは買っておかねば読むこともできなくなってしまうとのだなと読みたいものを調べ始めた。

部屋の本棚には入りきれない本、ましてや押入に仕舞い込んでしまった漫画などある状態。
流石に仕舞い込んだ本はもう目にすることもないだろうと古本を取り扱うところに持ち込み手放そうと思う。
カメラも同様に最近使っていなかったレンズも手放した。あれこれ持ちすぎると本当に持ちたかったものは手に入らない気がした。

ふと考える事がある。
僕自身は昔から文字でいろいろ考えがちだと言うこと。
それは、自分にとって良いことでもあって、困ったことでもある。大学の卒業設計では大変悩まされた。
しかし今では、趣味を写真というある種言葉が無くとも伝わってしまうものに楽しさを感じている。
なにか変わったのだろうか?
いや、今、鬼海さんやハービーさんのエッセイを読み、写真の背景にある言葉を探しているのだと思う。つまり今も昔もそうそう変わってない。

多分、いま写真を撮ることは、後に言葉を連ねるための記憶メモなんだと思う。
誰かと言葉を交わすための記憶の一つ。

何もかもを撮り漏らさずなんて出来ないけれども、数枚撮ったうち何枚かはそんなメモになってくれるんじゃないかなと思う。とりあえず今日は写真はいいかな。

はらり、はらり

前日にテレビから流れた天気予報の荒れ模様とは裏腹に、その日の朝は散りはじめの桜にしっかりと日差しを降り注いでいる。
お腹を満たすとすぐ自室に戻りカメラにモノクロフィルムを詰める。

モノクロを頻繁に使い始めたのも、目測方式のカメラを積極的に使う気になったのも年を越してからのこと。
使うたびに「これまでの感覚とは異なる視覚的情報」と「シャッターを切る判断を想像と勘に頼らざる負えない」ことに戸惑いを感じつつ、日光を浴びるとに”まぁなんとでもなるか”という諦めを含んだ寛容な気持ちに春を感じる。

すこし高台にある公園が出発地点。
道沿いに桜の樹が点在する。僕が小さい頃は菊まつりの会場として所狭しと菊に着飾れた人形が居たものだったけど、今は会場が変更となりだいぶ静かな場所と感じた。

高台ともあって、少し長い階段がある。何が原因だろう、「耳をすませば」だろうか、小さいときから階段や坂のある土地が好きだった。できれば海も見下ろしたいものだが、残念なことに周りは山だらけ。
父方の親戚は海側に住んでいるし、姉も海近くにいるので早く再会したいものなんだけど、いつになることやら。

階段を降り、記憶に深く残っているところや未だ知らない路地に入ったりする。
途中、ラーメン屋さんの小さな子どもたちがお父さんと自転車遊びをする一面に遭遇したり、グラウンドで野球の練習をする小学生たちを横目に車で移動中に気になっていた桜の並木道に向かって歩いていく。